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幼少の頃は近所にいた兄貴分と実の兄らと自転車でそれまで行ったことがないところへよく出かけました。大神神社とか当時の桜井のニチイとか、一番遠いところでは斑鳩町の法隆寺まで行ったこともありました。
道も分からないのによく行ったものです。心は「スタンドバイミー」状態でした。好奇心が旺盛だったのはすでにこの頃からだったのでしょう。
小学校高学年になると近くの河川敷で「秘密基地」づくりをしたり、知らない場所を求めて探検したり山の辺の道のほうへカニ採りやゲンジ採りに行ったりして暗くなるまでよく遊んでいました。
気管支喘息に悩まされ見かけの割には体が強くはなかったので、両親は遅くまで外で遊ぶことについては認めてくれていたように思います。
体が大きくなってからは少年野球や空手道場にも通うようになりました。当時僕が住む新興住宅街は90世帯くらいの小さな自治会でしたが、ほとんどの家には近い年齢の子供がいてその小さな自治会で一つの野球チームが出来ていました。
そのため部員は少なく誰でもレギュラーになれる可能性が高かったので、早朝や週末には練習を重ねましたが「強い」と呼ばれるには縁遠いチームでした。
6年生になったとき隣町の4チームと合併し新しいチームになりました。新チームは周りからも期待されましたがなかなかその通りの結果は出せず、最後の予選でも勝つと思ったチームに負けてしまい、悔しくてはじめて皆の前で涙を流したことを憶えています。薬師丸ひろこの「セーラー服と機関銃」が流行っていた頃です。