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マイペースで練習に打ち込む内容が気に入りとても居心地の良いクラブでした。
生ぬるいお湯につかっているような自分への厳しさに少々欠いた内容でもありました。
思春期になると少し気も短くなっていき、ある時列を組んで耳成山の周りを走っていたとき正面から来る別の集団とぶつかりかけ「おまえらどこの中学やねん」というと「朝鮮中学」と答え、あわや国を超えて乱闘になるかと思うような時もありました。クラブには優しく綺麗な憧れの先輩がいて、その先輩に会うためにもクラブを休めないと思い出席率だけは良かったです。
空手のほうはといえばこれもまた胸を張れるような志ではありませんでした。 「けんかに強くなりたい」と思いながらも先輩が多く組手ではいつもボコボコにやられていました。特に兄との組手では勝てない歯がゆさが前面に出て他人以上に熱くなり、ほとんど家の外でする「兄弟げんか」状態の組手でした。
高校は陸上部仲間と陸上の強い学校に行こうと約束し受験しましたが、まったく勉強をしていなかった僕は当然のように不合格になりました。でも簡単に割り切れるものではなく少しは勉強しておけばよかったとさすがに悔やみました。二次試験で再受験するか中学卒として社会人になるか二つに一つの選択を迫られました。自分なりに悩みましたが経験の少ない自分に判断材料はなく、生徒指導部長の出身地でもあった十津川高校の二次試験を勧められるまま受験しました。同じ県内のこんな奥深くに人が住んでいるのかと驚くくらい当時は遠く感じました。八木駅からバスで4時間かかりました。英語はとくに苦手だったため担当の先生から徹夜で教えて頂きながら二次試験に備えました。その甲斐あって今度は合格することが出来ました。
でもそこには友達と離れる寮住まいの生活が待っていました。ちょうどその頃は尾崎豊の「卒業」が流行っていました。